醸造所
3 FONTEINEN ドリー・フォンテイヌ醸造所
醸造所 3 Fonteinen 所在地 Molenstraat 47, 1651 Lot - Beersel, Belgium サイト https://www.3fonteinen.be/en/
HISTORY
初期の始まり

ブーン醸造所の歴史は、J.B.クラース(J.B. Claes)が一軒の農家を買って醸造・蒸留所を始めた1680年にさかのぼることができます。
多くのベルギーの醸造所と同様に、ドリー・フォンテイヌ醸造所の起源ははっきりしません。創業は少なくとも1882年にさかのぼり、ヤコブス・ヴァンドリンデン (Jacobus Vanderlinden) とその妻ヨアナ・ブリレンス (Joanna Brillens) が、ブリュッセルとゼナ川にほど近いベールセル村 (Beersel) に宿屋を開き、そこでグースをブレンドし始めていた事が分かっています。
ドリー・フォンテイヌという名前は(日本語で3つの噴水という意味)、おそらくランビック、ファロ、クリークの3種類のビールが流れる3つの磁器製ハンドポンプを指していると思われますが、大昔の多くのものと同様、それも完全には定かではありません。
ヤコブスとヨアナの息子ヤンバプティスト (Jan-Baptist) は家業を継ぎましたが、第二次世界大戦後、一族内に後継者がいなかったため、宿の買い手を探していました。
その買い手が、ガストン・デベルデル (Gaston Debelder) とその妻レイモンド・デドンケル (Raymonde Dedoncker)です。元農夫で、グースのブレンドの経験がなかったガストンでしたが、驚くほど早くこの技術を習得しました。当時はレストランが主な収入源であり、1961年、デベルデル夫妻はベールセルの教会広場にある古い建物を購入し、同じドリー・フォンテイヌの名の下に新しいパブ・レストランを建てました。
ブレンドの技術への情熱が高まったガストンは、ビールを静かに熟成させるのに理想的な場所として、独力で新しいパブの地下にセラーを掘りました。
このパブが地元で有名になったのは60年代から70年代にかけてのことで、フラマン人の作家ヘルマン・テイルリンク (Herman Teirlinck) が率いる作家、芸術家、知識人のクラブがドリー・フォンテイヌを活動拠点としていました。このクラブでは、主に知的で政治的な議論が交わされましたが、同時に多くのグースが飲まれました。
グースへの不屈の情熱

1974年、ガストンとレイモンドは2人の息子に事業を引き継ぎました。長男のアルマン (Armand) は厨房とグースのブレンドの担当となり、ランビック、ファロ、グースを使った郷土料理をメニューに加えました。なぜなら彼の真の熱意はいつも、料理よりもビールに注がれていたからです。彼は、グースのブレンドに必要な嗅覚と知識と経験を父から受け継いでいました。
80年代にはレストランは大成功を収め、ベルジャンフリッツやムール貝がカウンターの上を飛び交いました。しかし、それとは対照的に、90年代初頭、グースの消費量は過去最低を記録しました。
消費者の嗜好はより甘い飲み物にシフトし、大手ビール会社は小規模な会社を買収して閉鎖しました。また、伝統的なグース・ブレンディングの技術は、多くの忍耐だけでなく資金も必要とします。グースは販売できるようになるまでに4年という時間を要するため、生産には常に4年先までの資金調達が必要でした。
厳しい状況の中で、アルマンに事業を転換すること、あるいはグースを完全にやめることを勧める者も多くいました。1993年、アルマンはベルギーのビール消費者団体であるオブジェクティブ・ビア・テイスターズ(Objective Beer Tasters)の年間アワードを受賞しました(ベルギーのビール醸造界でふさわしい人物に贈られます)。これを受け、彼は伝統的なグース・ブレンディングの技術には必ず未来があると確信を強めました。
当時、ビール界でグースが苦戦を続けていたにもかかわらず、1998年、アルマンは自らランビックを醸造することを決意しました。それまでは、彼はブーン醸造所を含む様々な醸造所からランビックを購入しブレンドのみを行うブレンダーでしたが、ドリー・フォンテイヌ醸造所の設立に伴い、ランビックの醸造方法を学びました。
その後、ランビック・ビールとグース・ビールは地元文化の一部として国内外から注目されるようになりました。ドリー・フォンテイヌ醸造所の設立はまさにそのタイミングでした。世界中の観光客がブリュッセルやゼナ川、またその周辺地域(パヨッテンラント)を車で巡り、独特の味を求めるようになりました。醸造所は成長を遂げ、2008年には財政的に安定し、醸造量は年間約800HLに上り、4カ所で醸造されるようになりました。
危機を乗り越える
アルマンと彼の設立したての醸造所にとってすべてが順調に進んでいるように見えましたが、2009 年は醸造所にとって試練の年となりました。
5 月 16 日、アルマンが貯蔵室のドアを開けると、猛暑が彼を吹き飛ばしました。発酵と調整中のボトルでいっぱいのこの空間は、サーモスタットによって制御され、通常は 18°C の一定温度に保たれています。しかし、故障により、その温度は60℃まで上昇していました。その時すでに13,000本のボトルが圧力の上昇により破裂し、アルマンはボトルが次々と破裂する音をまだ聞くことができました。貯蔵室には1年分の在庫が保管されており、これは年間の収益を意味していました。
アルマンは醸造所の倒産を覚悟しましたが、婚約者、親しい友人、そして多くの愛好家たちの助けにより、 ドリー・フォンテイヌ醸造所は危機を脱しました。
ボランティア達は販売できなくなったグース65,000本を空にして、グースの特徴を持つ「アルマン・スピリッツ」 (Armand’Spirit) という蒸留酒のベースとしました。さらに、オーク樽で熟成中のランビック・ビールをブレンドし、「アルマン4シリーズ」と呼ばれるユニークなグースのシリーズも作りました。(「アルマン4シリーズ」は、春、夏、秋、冬の4種類で構成されます。)
アルマンは一時的にグースのブレンドのみに集中し、醸造設備の売却と私財の大量投入を行いました。こうしてドリー・フォンテイヌ醸造所は、生き残るのに十分なキャッシュフローを短期間で生み出しました。
経済的に余裕ができたとき、醸造所はミカエル・ブランカールト (Michaël Blancquaert) を製造アシスタントとして採用しました。彼は若く、十分な経験も持ち合わせていませんでしたが、アルマンはミカエルに若いころの自身の姿を見ました。ミカエルも職人技に駆り立てられ、伝統に感化され、学ぶことに熱心でした。さらに、グースのブレンダーにとって非常に重要なことですが、彼は嗅覚がとても優れていました。
新しい世代
2012年、アルマンとミカエルは、1998年にアルマンが始めたのと同じ場所で、ドリー・フォンテイヌのランビック・ビールの醸造を再開しました。しかし、4つの異なる場所で木樽を保管することは、物流面と財政面で大きなハードルであることが判明しました。醸造以外のすべての活動を一元化する可能性を検討したとき、ウェルネル・ヴァン・オッベルゲン (Werner Van Obberghen) がその話に加わりました。ウェルネルは小さな醸造所とその苦闘についての深い知識を持っており、そしてミカエルとは一緒に醸造コースを受講した旧知の仲でした。
ウェルネルはアルマンよりも数字に詳しく、醸造所の活動の大部分を一元化する事業計画を提案しました。最初の目標は、銀行に醸造所を支援するよう説得することでした。
ミカエルとウェルネルは、その後の土曜日と日曜日をすべてこの取り組みに費やし、その過程で二人の友情は深まっていきました。アルマンはそれを見ながら、彼自身まだ気付いていなかったかもしれませんが、将来の後継者たちを見つけていたのでした。
やがて2016年、「ランビック・オ・ドルーム」 (Lambiek-O-droom) という新しいエクスペリエンス・センターがオープンしました。センターは、樽貯蔵室、瓶詰めライン、ラベリングライン、ボトルを貯蔵・熟成させるウォームルーム、管理室からなります。さらに、敷地内にはビジターセンター、ミーティングスペース、テイスティングルームも併設され、国内外の観光客を惹きつけています。
終わりと新たな始まり
醸造所は、ランビック・ビールの試作を何度も行える広さを持つことと、世界中のビール愛好家が集える場所を持つという二つの目標を達成しました。しかし、次の野望は醸造所の壁の外で行われることになります。
当時の商業的な単一栽培では農業が立ちいかなくなると危機感を募らせた醸造所は、地元のテロワールの復活を目指すことにしました。
具体的には、農家、果物農家、職人を醸造所の思いに参加させるということです。可能な限り、地元の農家や果樹農家から仕入れた地元産の原料を使用し、オーガニック原料への切り替えも熟慮の上で行われました。
アルマンは2019年から正式に引退しましたが、この新たな戦略立案にまだまだ大きく関与していました。そのため、アルマンが癌の転移と診断されたとき、誰もが衝撃を受けました。重い治療を前に、アルマンは「明日、私に何かあってもドリー・フォンテイヌ醸造所の将来を危うくしないために」と、保有していた醸造所の株式を後継者に譲り渡すことを決めました。
3年間の闘病生活の後、アルマンは2022年3月6日に70歳でこの世を去りました。醸造所のチームの子供たちから「オーパ・グース(グースじいさん)」と呼ばれていたアルマンは、もう愛する醸造所や土地を歩き回ることはなくなりましたが、ドリー・フォンテイヌ醸造所が続いていくための堅固な財産を残しました。
テロワール
ドリー・フォンテイヌ醸造所の一大プロジェクトは、テロワールへの回帰です。それはどういう意味でしょうか?
簡単に言えば、醸造所は、農家および自然にとってより良く、そして醸造所自身にとってより良いシステムを見つけようとしています。そうすることで、より良いビールを造ることができ、最終的に消費者にも良い結果をもたらすと信じています。
地元の農家、果物栽培農家、その他の職人と緊密に協力することで、醸造所は農家が提供する原料に適正な価格を支払うことに取り組みます。その見返りとして、醸造所は完全に有機栽培された原料を要求し、当時の商業的な理由によって形成された単一栽培からの脱却を目指します。
この方法を通じて、醸造所は長年の夢をかなえたいと願っています。それは、ランビック醸造に使われていた、長い間失われていた地元の穀物の復活です。
しかし、ゴールはプロセスよりも重要ではありません。シェフであれ、醸造家であれ、製粉業者であれ、パン屋であれ、農家とその顧客との地元での協力関係は、醸造所にとって極めて重要です。
グースとは何ですか?
グースはベルギーで生まれた特別なビールです。熟成させたランビック・ビールをブレンドして造られるのが特徴です。ランビック・ビールはベルギーの伝統的なビールで、野生酵母で自然発酵させるため、独特の酸味とフルーティーな風味があります。
グース・ビールの作り方を紹介しましょう。
ランビック・ビール醸造
醸造家はまず、大麦麦芽、生小麦、熟成ホップ、水を混ぜてランビック・ビールを醸造します。この混合物を浅く開いた冷却槽(クールシップ・koelschip)の中で一晩冷やし、空気中に存在する野生酵母と微生物に発酵を開始させます。
熟成
ランビック・ビールはフーデル (foeder) という木樽で1年から3年熟成させて造られます。この間、複雑な発酵と熟成が行われ、風味と個性が増します。
ブレンド
熟成後、熟成年数の異なる様々なランビック・ビール(通常、1年熟成、2年熟成、3年熟成のもの)が、熟練の醸造家によって注意深くブレンドされます。ブレンド後、ビールの名前はランビックからグースに変わります。
ブレンドされたグース・ビールは瓶詰めされます。瓶内では自然に二次発酵が起こります。これがグースに泡を与え、時間の経過とともに風味が増すのを助けます。
発酵
ブレンドされたグース・ビールは瓶詰めされます。瓶内では自然に二次発酵が起こります。これがグースを発泡させ、時間の経過とともに風味が増すのを助けます。
ランビックとグース - 2つとして同じビールはありません
ドリー・フォンテイヌ醸造所は、職人技を駆使したランビック・ビールを専門としており、地元農家や地域社会との協力関係を誇りとしています。
有機栽培の原料、気まぐれな天候、目に見えない小さな微生物、中古の古いオーク樽など、職人的な醸造方法には予測不可能な要素がたくさんあり、醸造所は「同じビールは存在しない」と断言しています。そして、それこそが彼らの仕事の素晴らしさなのです。
ドリー・フォンテイヌ醸造所では次のように言われています。「私たちはドリー・フォンテイヌのビールがどの様な味わいになり得るかを知っています。でも、どの様な味わいになるべきかは言いません」。
ボトルとその保管方法
グース・ビールが入っている瓶は、ワインボトルと同じように保存しなければなりません。良い状態で保存すれば、賞味期限をはるかに超えて保存することができ、ボトルを開ければ、新しい味と香りの数々を楽しむことができます。
若いグースは辛口で喉の渇きを癒やしてくれますが、熟成したもののような複雑な果実のアロマやまろやかさはありません。これは、瓶の中で発酵を続ける野生酵母の仕業です。
では、このより複雑なグースを楽しむには、どのような条件が必要なのでしょうか?
1/暗ければ暗いほど良い。 光、特に紫外線が瓶、ひいてはビールに触れると、酸化を引き起こし、段ボールのような味になってしまいます。
2/ 低温を保つ。 理想的な温度は10~15℃前後です。もう少し高くても問題はないですが、20℃以下に保ちましょう。温度が高すぎるとビールが腐敗します。急激な温度変化はコルクが収縮と膨張を交互に繰り返すので、これも避けましょう。コルクがしっかりと閉まらなくなると、空気との接触が多くなり、これも不要な酸化につながります。
3/ 湿度。 湿った空気はボトルの中のコルクを膨張状態に保ち、空気漏れのリスクを減らします。理想的な湿度は70%~80%です。カビが生えないように、部屋の換気もよくしておくべきです。
4/ボトルを寝かせる。 伝統的なランビック・ビールは水平に保存する必要があります。こうすることで、コルクは濡れた状態を保ち、ボトル内のビールとの接触を失わないため、膨張状態が保たれます。ボトルを垂直に立てると、ビールとキャップの間はCO2の真空状態が保たれ、緊張が解けます。次に、水平に保管すると、澱がより早く均一に底に広がります。この澱が瓶の中でグースをさらに熟成させることができます。
- 2025.02.03
- 14:09
ア・シュフ醸造所
アシュフ(Achouffe)醸造所は、いつか自分達のスペシャル・ビールを醸造するのだと夢見る二人の素晴らしいベルギー人によって、1982年に「趣味の醸造所」としてスタートしました。同年8月27日に最初のビールが誕生しましたが、それはわずか49リットルに過ぎませんでした。1986年には、1805年に建てられたという古い農家を買い取り、そこで小さなアシュフ醸造所を設立しました。生産数量は次第に増えて、わずか2年後の1988年には最初の輸出まで実現しました。それはカナダのケベック州向けで、今なおアシュフの主要輸出市場のひとつとなっています。
同醸造所ではそこでアシュフビールが愉しめる自営のカフェーレストランを1990年に開きました。現在では、一日当たり7,000Lの生産能力を持つ醸造ラインを約2~3回転するまでに至っています。
醸造所 Achouffe Brewery 所在地 Rue du Village 32, 6666 Achouffe, Belgium, Belgium サイト https://chouffe.com/en/brewery-achouffe/
49リットルから
7,000HLに
2006年9月、アシュフ醸造所の経営はデュベル・モルトガット社に引き継がれました。
ヴェルハーゲ醸造所
醸造所と製麦所がアドルフ・ヴェルハーゲ(Adolf Verhaeghe、1851-1918)とポール・ヴェルハーゲ(Paul Verhaeghe、1860-1936)の腹違いの兄弟によって1892年に始まりました。醸造所の立ち上がり時期にポールは、義理の兄弟であるフレデリック・ヴァンデルハーゲ(Frederic Vanderhaeghe、1844-1923)にも手助けを求めます。フレデリックはゲント出身の醸造技術者一家の息子でした。
醸造所や製麦所は完全な石造りで、アドルフの石工所から石が使われていました。醸造所周辺の家々の建築にもこれらの石が使用され、それらの家はブリューパブとしても貸し出されていました。ビール造りに使用する小麦は周辺の農地から持ち込まれていましたが、その農地もまたヴェルハーゲ家が所有していたのです。
当然ながら、最初の内は客層の殆どが近辺に住んでいる農家の家族でしたが、後に首都ブリュッセルへの鉄道線路の近くに建っていたという好立地が、この醸造所の発展にきわめて重要な要素となり、客層の地盤が醸造所近辺の枠を越えて拡がっていくことになりました。
第一次世界大戦の勃発が、醸造所の発展に突然ストップをかけることになります。醸造所は、ポールがドイツ軍へのビール醸造を断った後、ドイツ占領軍によって完全に取り壊されてしまいました。戦争の弾薬製造材料として銅製品を再利用する目的から、他の醸造所の醸造設備もドイツ軍によって持ち去られました。
1937年には、レオンとヴィクター・ ヴェルハーゲ(Leon & Victor Verhaeghe)が、醸造・製麦ビジネスを再開しました。ところが、第二次世界大戦の勃発によって二度目の災難に見舞われます。麦芽の慢性的な不足から、醸造所はアルコール度数0.8%といったような非常に軽い、いわゆる「ゼロ・ハチ」(zero-huit)と呼ばれたビールしか醸造できませんでした。醸造所が所有するパブの多くもまた、すさまじい爆撃によって商売どころではありませんでした。
戦後、市場ではピルスナータイプのビールが一層その存在を強めていました。しかしヴェルハーゲ醸造所は、上面発酵ビールにこだわり続けました。1960年代中頃以降から、地方に根ざしているビール、いわゆるベルギーの「クラフト」ビールの味について、人々が再評価しつつありました。この新たな市場の傾向が、西フランダース地方における伝統的な産物である、赤褐色のエールビールの人気向上に貢献し、醸造所の発展を強く後押ししていきました。
現在、醸造所はカール・ヴェルハーゲ(Karl Verhaeghe)と彼の姉妹によって経営されており、年間生産量は6,500HLを超えています。
醸造所 Verhaeghe 所在地 Sint-Dierikserf 1, 8570 Vichte, Belgium サイト http://www.brouwerijverhaeghe.be/ ブランド ドゥシャス・デ・ブルゴーニュ etc.
醸造所の立ち上げ
戦争の影響
伝統のレッド・エール
デュベル・モルトガット醸造所
1871年、ステーンフッフェル村(Steenhuffel)の醸造家家族の息子であったヤン-レオナルド・モルトガット(Jan-Leonard Moortgat)が、妻のマリア・デ・ブロック(Maria De Block)と共にデュベル・モルトガット醸造所を設立しました。
20世紀への変革期であった当時のベルギーで、この新しく生まれた醸造所は4,000もある醸造所のうちのひとつにすぎませんでした。スタートは決して順調ではなく、ヤン-レオナルドは初期の何年間かは、沢山の上面発酵ビールの販売を試みたり、先駆者としての仕事をしたり、しました。そしてそれが成功へと変わっていきました。
忍耐力、醸造家としての情熱そして職人気質といったもののお陰で、ヤン-レオナルド・モルトガットは次第に彼の造る上面発酵ビールへの贔屓客層をつかんでゆきました。ブリュッセルに住む中流階級の人達もまた彼のビールを気に入っていて、彼はラーケン(Laken)に貯蔵所を持つことができるようになったのでした。既に130年以上も継続している成功物語は、このようなスタートでした。
世紀の変革期であった頃、ヤン-レオナルドの2人の息子のアルベール(Albert)とビクトール(Victor)が事業に参加してアルベールは醸造技師となり、ビクトールはブリュッセルへの馬と荷車による配送に携わりました。この時期には英国のエールが非常に人気を博しておりましたが、第一次世界大戦(1914~1918)によってこれらの英国エールがベルギーにまでやってくることになったのです。
アルベールは、英国エールに倣って英国風ビールを造って、英国エールビール成功物語の一端となろうと決めたのでした。そこで現地の酵母見本が必要不可欠となり、アルベールは北海を渡って長い旅の末に、待望の酵母見本をついに手に入れることができたのでした。まさにこの同じ株から培養された酵母が今日も使用されているのです。
当初このビールは1918年に終結した第一次世界大戦を記念して「ヴィクトリー・エール」と命名されましたが、その後ヴァン・デ・ワウワー(Van De Wouwer)という近所の靴屋さんが試飲の会で、「このビールはまさに悪魔だ」と表現してその歴史を変えたのです。1923年以降、このビールは(この地方の方言で悪魔を意味する)「Duvel」というブランド名で販売されることになったのです。1923年のデュベル生産は、木箱(クレート容器)でわずか数箱分という、ゆっくりとしたスタートでした。1970年代の初めが大ブレークの時期でした。この旗艦ブランドの成功をたたえて、グループ会社名が「モルトガット」から「デュベル・モルトガット」(Duvel Moortgat)に改名されました。
1950年代以降、モルトガットの第三世代が事業を引き継ぎました。2組の兄弟ペアー即ち、レオンとエミール・モルトガット(Leon and Emile Moortgat)そしてベルトとマルセル・モルトガット(Bert & Marcel Moortgat)です。彼らの指揮のもと、醸造所は技術的にも販売上でも、今までにないより高い水準へとさらに拡大していったのでした。
1960年代後半、デュベルのグラスが初めてチューリップ型グラスになりました。これは330ml瓶1本分が注げるものでした。その当時までこのようなグラスは存在していませんでした。70年代の中頃、デュベル・モルトガットのビールは海外でもその評判を得はじめましたが、その成功はデュベル・ブランドに負うところが大でした。
1999年までに、デュベル・モルトガット醸造所は最も重要なベルギー醸造所グループの一角をなすところまで大きくなっていました。会社の成長を更に促進し事業の継続性を確実なものにするためブリュッセル証券取引所に上場し、2001年にはデュベル・モルトガットは、厳正な製品安全規格が運用されていることを証明するHACCP認証を受けた最初のベルギーの醸造所となりました。
近年ではデュベル・モルトガットは近隣諸国(オランダ、フランス、英国など)での態勢を強化し、輸出事業を世界規模でも著しく進展させています。1990年代初期からデュベルの市場になった日本は、今やデュベルの最重要輸出市場のひとつとなっています。
醸造所 Duvel Moortgat 所在地 Breendonkdorp 58, 2870 Puurs-Sint-Amands, Belgium サイト https://www.duvelmoortgat.be/en
1871年 設立
悪魔の誕生
世界の「デュベル・モルトガット」へ
ヴァルシュタイナー醸造所
ヴァルシュタイナー醸造所は、1753年にアントニアス・クラーマー(Antonius Cramer)が自宅にて創業したところから始まりました。ドイツのザワーランド地方の中心にある、美しいアルンスベルクの森の小さな街・ヴァルシュタインで、長きにわたる伝統ある醸造が始まりました。
ほとんどのヴァルシュタイナー・ビールがドイツの「ビール純粋令」に沿って造られ、水、麦芽、ホップ、すべての原料はヴァルシュタイナーの高い基準をクリアした高品質なもののみを使用し、ヴァルシュタイナーは高品質のプレミアム・ビールを造り続けてきました。その結果、今では世界60か国で飲まれる、ドイツ屈指のビール醸造所となっています。
250年という長い時間を超えて、クラーマー家による家族経営は続いています。1927年には、醸造所の近くにある「カイザークヴェレ(Kaiserquelle)」という水源を発見します。この水源は、ビールの醸造に適した超軟水と言われており、ヴァルシュタイナーが造るビールの味を向上させました。この上質の軟水が、ヴァルシュタイナー醸造所の成功の一助となったことは、言うまでもないでしょう。
1969年、ヴァルシュタイナーはヘルマン・ホフマン氏デザインのグラス「チューリップ」を取り入れました。ドイツビール業界においては革命的なデザインであり、ヴァルシュタイナービールのプレミアム品質を象徴するエレガントなグラスです。その後もこの「チューリップ」を使って、アンディー・ウォーホールなど数々の著名デザイナーとのコラボレーションを通じ、デザイン性の追求という醸造所の理念を継承してきました。
また、ゴルフ大会やサッカーチーム、音楽フェスなどのスポンサーとなり、ドイツ国内での人気を確固たるものにしてきました。ドイツの航空会社であるルフトハンザでは、ヴァルシュタイナーが機内で提供されていたこともあり、まさしく「プレミアム」なビールであることを証明してきたのです。
醸造所 Warsteiner 所在地 Domring 4, 59581 Warstein, Germany サイト http://www.warsteiner.jp/ ブランド ヴァルシュタイナー
伝統ある醸造
ブランディング
リーフマンス醸造所
リーフマンスの歴史は、1679年、ヤコブ・リーフマンス氏がアウデナールデに醸造所を創業したことで始まりました。現存するリーフマンス醸造所は、ベルギー最古の醸造所のひとつです。
醸造マスターは、ビールが持つ独自の味わいを保つために、日々、目を光らせています。 製品の品質管理に努力と時間を惜しまず、僅かな味の変化にも妥協しない。それが職人としての技の見せ所であり、彼らが最もワクワクする瞬間なのです。「どのビール樽にも個性があり、それをうまくブレンドして製品にするのが我々の仕事」。こう語るのは、醸造所の醸造マスター、マーク・コーセンス氏です。「優れた醸造マスターは経験豊かで、味のセンスが良く、製品を知り尽くしているものだ」。リーフマンスは、職人たちの知恵と技術の結晶なのです。
オリジナリティー、エレガンス、品質の代名詞とも呼べる、リーフマンス。ベルギー初の女性醸造マスター、ローサ・メークス女史は40年以上も醸造の指揮を執り、 そのユニークな味わいを高めるために才能を発揮しています。 彼女の厳しく妥協を許さない姿勢は、従来のベルギービールから一線を画す新たなチェリー・ビールを生み出し、リーフマンスの歴史を大きく変えました。ペーパーラッピング包装を導入したのも、リーフマンスが初めてです。こうしたローサの功績を称え、すべてのリーフマンスのラベルには彼女のサインが記されています。ローサは今も醸造マスターとともに、リーフマンスの品質に目を光らせています。
醸造所 Liefmans 所在地 Aalststraat 200, 9700 Oudenaarde, Belgium サイト http://www.liefmans.jp/ja ブランド リーフマンス チェリー・ビールへの飽くなき追及
リーフマンスがブラックチェリーを発酵タンクに詰め始めたのは、1900年頃のことでした。地元の農家が、余ったブラックチェリーをビールと交換しにやって来たのです。以来このチェリービールの色と味わいは、長い年月をかけ進化し続けています。